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リコの書くブログ028

大学は長いですから、いろんなことしました。
私が大学1年の時にバブルが崩壊しましたが、まだしばらくは余韻を保っていたこともあり、華やかな感じでした。海外旅行も良くいきましたが、基本的にアジア。これまた父がハワイとかグアムとかは遊びに行くところだから言ってはダメ(なぜだ。大学生なのに)ということで、タイだの韓国だのに行くこと多数。特に韓国は1年時に父の仕事の関係で大学生訪韓団とやらに入れてもらい、1週間の研修にも参加。2泊ほどホームステイ(私はKBSテレビのお偉いさんのお家)をさせていただいたりしました。
韓国は高校の修学旅行でも行ったところなのでなじみがあり、社会人になっても通いました。社会人の時は、「熱海位の感覚で行けて、電話が通じない(今は通じちゃう)から、仕事から完全に頭をクリアにできる場所」。あの、雑踏の中で「誰も私と繋がらない」感、サイコーだと思います。一瞬でいいですけどね。
ただし学生貧乏旅行ですので、基本は旅費がかからない真冬。2月くらいの韓国は本気で寒いですが、若いからあまり気にしませんでした。ブランドなどに興味がないため基本的には市場でお買い物。あの当時は日本に入ってきてなかったカトラリーや石焼鍋などをトランクに詰め込んで帰ってきたりしていました。

国内の旅行は大阪の花博ついでに京都、神戸をまわったことと、福島から新潟を車で移動しながらいろいろ泊まるとか、館山のリゾートマンションを借りて朝市でアジを大量に買ってさばくとか、そんな感じです。

旅行ではありませんが、大学院の時は大阪大学で学会があり、ゼミの先輩たちと1台の車で向かいました。運転手は二人。助手席係も二人。のはずだったのですが、助手席係の一人が居眠りをするので途中で却下され、私一人でずっと助手席担当だったことが大変でした。長距離の運転中、助手席係は寝てはいけないし、運転手の世話を焼かなければいけない、お話相手にもならなければいけないというミッションがありまして。後年、旦那さんになる人が運転手の時は同い年だから楽なんですが、先輩が運転手の時は緊張(普段でも茶畑100km/hで飛ばす人なんだもん)しました。だって、東名高速で黒塗りの車が隣に来たらバトルしたいとか言ってスピード出すし、名古屋のサービスエリアで、「えびふりゃー」と言って逃げてこいとかいうし、無茶ぶりなんだもの。
大阪市内に入ったら助手席担当2の先輩が起きて、「私替わりますよ」とかいうのです。もうへとへとで、変わってもらったとたんに意識が途切れて熟睡しました。

旅行以外では、例の「人間科学研究会」サークルでNHKの「燃えてトライアル」という番組にみんなで出演。若者向けトーク番組で、私たちの回は「さよなら人類?まるかじり進化論」というテーマだったのですが、私なんかはまじめに答えていたのにまったく使われず、なんか変なこと言うとか、面白いことするとか、そういうカットが沢山使われていてびっくりしました。今思うと当然なんですがね。つまり「若者」っぽくなかったわけです。というか、彼らが考える「若者」ではなかったのですね。天下のNHKだからほかの民放と違って真面目なんだと思ったのになあ・・とがっかりしたのを覚えています。

もう一つは同じくサークルの友人二人が「ハンターチャンス」に出たとき。
私たちは応援席のほうでして、ADさんの言うとおりに盛り上がってリ、笑ったりしていました。ところが最終問題、これで一発逆転なるか??という時に友人がものすごい珍回答をしまして。優勝できなかったのです
ADさんは、「がっかりする応援団の図」を撮りたいのだけれど、我々はもう爆笑してしまって、全然役に立たない。ADさんは哀しそうな顔をしていました。

今でも思うけど、ああいう出演のコネってどこで作るんでしょうね。
私も長いこといろんな仕事やってきて、それこそテレビ局に8年くらい通っていたのに、一度もそういう機会はありませんでした。まあ、出たいとも思いませんが(負け惜しみ)。みんな上手にチャンスをつかんでるんだろうなあ・・・