横浜での生活は7年間。終わりを告げたのは3年生の秋でした。春日部の祖母が末期ガンで入院したのですが、だれか世話をする人が必要、となった家族会議(父方の兄弟のみ)で、父が「俺が行く」と言い出したのです。急遽家を売って、春日部に行くことになりました。3年の3学期の初日から、私は今も関わっている地元の学校に転校。つまり、私自身は3年間しか通っていないのです。でも、高学年て目立ちますから、昔から私を知っている人でも、結構転校生ってことを知らなかったりします。
横浜の小学校は球技が盛んで、不器用な私は全然楽しくなかったのですが、春日部は陸上と水泳に力を入れていました(その当時)。水泳は苦手だけど、走るのは大好き。年2回の運動会、陸上競技大会、持久走大会と、毎日暗くなるまで校庭を走っていたので、後年PTAで一緒になった学年下の人(なぜか私を覚えていてくれて)は、「吉田さんていつみても走ってるっていう印象でした」と言われてしまいました。市内の大会では100Mタイ記録を出したり、リレーで県大会に行ったり、結構頑張ったなあと。その当時は50M 7秒ジャスト、100Mは13秒台だったかな。スパイクはいてないんだから、結構早かったと思います。
今私が陸上やってたというとびっくりする人が多いですが、そんな感じだったのです。
母の好みにより、読める本が決まっていたので、学校の図書室に入り浸っていました。ここなら、だれにも怒られずに好きなだけ本が読める。片端から読んでいったので、たいていのカードに私の名前が書いてありました。灰谷健次郎が大好き。兎の目、太陽の子、プウ一等あげます・・読んでは泣いて、それでも読んで。4年生の時の先生は国語の先生だったので、やっぱり感想文を見ていただいていて、そこで文章を書く楽しさも覚えました。「人の気持ち」について想像すること、自分の気持ちに照らし合わせること。読書感想文は、心を豊かにするものだと思います。読むだけでなく、書くって大事。アウトプットすると自分の心の整理ができてすっきりするのです。後、語彙力がつくので、最終的に大学受験に至るまで、現国の勉強をしないで済みました(笑) でも漢字は苦手で、字も下手でしたけどね。性格がそんなにきっちりしてないので、とめ はね がうまくいかないのです。今も気を抜くとすごい字を書きます。それが後年、パソコンに手を出すきっかけになったのだと自分では思っております。
本と言えば、マンガも禁止でした。世の中には漫画雑誌というものがあって、そこで連載されていたものが後日まとまって単行本になるということを知ったのは高校に入ってからでした。ドラえもんしか読んだことなかったのです。友達とは外で遊んでたので、みんなが りぼん や なかよし を読んでるなんて知らなかった。ましてやアイドル雑誌(そのころは明星かな)も見たことありませんでした。すごい情報格差。アニメも禁止でしたが、さすがにこれは新聞を見れば載ってるので、母たちの部屋の押し入れに入ってこっそり見ていました。ただ、今と違ってリモコンなんてありません。母が部屋に入ってくると、押し入れを閉めるんだけど、しょせんテレビはついています。すぐばれて怒られた怒られた。
子供の浅知恵。もっとうまくやる方法はなかったのかしらと今では思います。