さて、いよいよ高校生活クライマックス(笑)。私の人生の大きな分岐点へ。
1年時から「私立外国語類型」クラスに所属していた私は、自分はずっと「英語」関係の大学に行って、英語に関係する仕事に就くんだ(教師)と思っていました。ところが、青天の霹靂、というか、女子高特有というか、大好きな先生ができてしまいまして。それが生物の先生。だいぶ年上。若い先生じゃないあたりがミソでして・・大変自分らしいと思います。
今も(?)昔もまじめな私は考えました。
(当時)2000人もいる女生徒の中で、先生に名前を憶えてもらうにはどうしたら良いのだろう・・
ふつうは、猛アタックですよ。アピールしまくるものですよ。女子高生なんですから。そのブランドを使わないでどうする!という感じです。
ところが私は「そうだ!勉強してテストの点が良ければ、きっと覚えてもらえる!!」
・・もう、愚かとしか言いようがない。目が悪い私はそれを表向きの理由にクラスの人にお願いをして、1年中最前列の席を確保(そのあたり本当にノリが良いクラスだったと思う)。
ノートはきっちりと取りました。だって、必ず先生が前回の授業を一番前の席の子のノートでチェックするんだもの。その30秒くらいのために命かけてましたよ。
生物のテストだけ、3週間も前から勉強をはじめ、7冊の問題集をこなし、当然成績はクラスで1番。よく考えたら、文系クラスなんて生物別に必要ないんだから、普通にしてても上位だったでしょうに、常に95点以上(だいたい97点とか98点とか)でした。おかげで本当に覚えてもらえましたけどね。作戦勝ちですが、それで恋愛なんざ成就しないわけです。これが今でも「可愛げがない」と言われる理由の一つでしょうか。なんでそんなこと言ってるかと言えば、後年この先生、私の同学年の子と結婚したから。くやしーと叫んでもあとの祭りです。
勉強すれば当然楽しくなるわけです。あんなに嫌いだった理科にはまる私。
人生なんてわからないものです。
実はそのころから英語とは別なことにも興味がありました。
社会の問題です。原発や脳死、人権、差別、福祉、市民活動・・・
このあたりも、その生物の先生の影響が大でした。労働組合設立の運動だの、なんだかそういうのを学校でやってまして。非常勤だったので、おそらく待遇面とか労働契約とかそういうことだったのだと思いますが・・(詳しくは聞いてないし、そもそも憧れすぎて自分から話しかけられず)
両親はこうしたことに私が興味を持つことは反対でした。
父は、受験に関係ないことをやっているほどお前は成績が良くないという理由。
母は、社会の「負」の部分に自分の娘が関わることを良しとしない(世間体?)し、もともと自分がこっち方面のことが嫌い。
というわけで、ひたすら講演会やシンポジウムのチラシをみつけては、はがきで申し込みをして(時代を感じる)こっそりと参加をしていましたが、演劇と一緒ですね。親には内緒です。ある意味入試の小論文のネタになりますからあながち間違ったことはしてないですが、受験勉強という意味では関係ないことをしていました。
でも、学校で教わる以外の勉強がしたかったのです。情報が欲しかったともいうのかな。考えるためには自分が納得できるだけの知識と体験が必要だから。これは今でもそう思っています。
英語は大好き。でも、どの学科に行くのかずっと悩んでいた時でした。
今ならば国際コミュニケーションとかあるんでしょうけれど、その当時は言語関係か、英文学関係かがほとんどでした。言語に興味があるわけではなく、英文学で何をするのか、全然イメージわかない。教師になるのであれば、どちらでも大丈夫だけれど、せっかく大学に行くならば自分の興味があるところに行きたい・・それまでの模試の志望校はすべて英語関係。それでも、はっきりと志望校をきめられないでいました。
ただ一つ、3年になっても、ICUを受けたい(とこれも表向きの理由)ということにして、国立クラスの課外の講座に紛れ込んこみ、理系以外の勉強をつづけていました。これはただ、先生の授業を聞きたいだけのために。だって、2年で生物終わりなんだもの。3年は理系科目ゼロでしたから。耐えられなかったわけです。だからやっぱり生物が好き。2年の後半には英語以外の進路というものがあるのではないか・・と思い始めていました。
それで、3年の11月。当時定期購読していたニュートンに、DNA二重らせんの構造のポスターが付録でついていたのです。「なんてきれい!」と。
次の日、学校の講師室。放課後に件の先生を呼び出して相談したのです。